おじんちょのよかった

過去のブログが閉鎖されたので、残しておきたい一部をこちらに転載しました。古い内容です。

おまえは目が見えないか 一向に構わない

ある小児科医の書いた文章を簡略化して紹介します。最後のことばに心討たれます.

① 米国で、ダウン症児を産んだ母親が産科医を訴えて勝訴したということが新聞に載っていた。ダウン症は、母親の年齢が高くなるにつれて、その発生頻度が高くなるために、米国の州によっては、高齢妊婦には、胎児のダウン症診断が、法的に許されているのだそうだ。そして、もしダウン症であることが判明すれば、人工流産することも許されているという。しかも、産科医は、このことを高齢妊婦に告げる義務があるのだそうだ。で、ダウン症児を産んだ母親は、高齢であったにもかかわらず、産科医がその旨を告げなかったと主張し、「もし告げられていたら、自分は診断を受け、そしてもしダウン症児をみごもっていることが判っていたら、きっと堕胎していただろう。この子が生まれたことに対しての慰謝料と養育費を支払え」と訴えたのである。そして2億円を勝ち取ったというのである。

 

② ニュース番組で、ある人が詩をつくり、別の人がその詩に感動して曲をつけ、そして又別の歌手がその曲に感動してリサイタルを開いた、ということが報道された。その作詞者は、40歳を過ぎておられるように見えたが、6歳のときに腹膜炎になり、以後、手足の自由が利かないのだそうだ。それどころか、言葉が喋れないのそうだ。食事も排泄も自分ではできないらしい。この人が詩をつくる方法は、こうである。かたわらのお母さんが「あいうえお表を順番に指し示し、その人ができる唯一の意思表示の瞬きで、ひとつの字ができる。瞬きといっても顔全体をしかめるような大変な苦労の瞬きである。こうして字をつらねていった詩が、なんと200にも達するのだそうだ。そして、その中のひとつが、こんな内容だった。「生きていてよかった。こんな重い病気になってよかった。おかげで私は神様にお会いできた。そして生きる喜びを知った。こんな重い病気になってよかった。生きててよかった。」

③ ある米国の白血病患者の母親の手記の内容である。子どもの白血病に効く薬が尽きたとき、母親は、その子を連れて我が家に帰る。家で楽しい一時を過ごそうと努力する。食事や風呂も、病院より家の方が自由だった。家なら、夜、機嫌が悪くなれば、外に連れ出し、一緒に星を見ることもできた。昼間気分が良ければ、父親が自慢のトラクターに乗せて喜ばせてやることもできた。しかし、その子にもついに最後の日が来て、呼吸はあえぐようになった。しかし母親には、そのあえぎの呼吸が、まるでこの子がこの世に生まれてくるときの陣痛のように思えた。そしてその母親は、頑張って死ねと応援するのである。そして、その子が最後の息を引き取ったとき、この子の誕生の時のように、「バンザイ、やった。我が子は死の勝利を勝ち得た」と心の中で叫んだ。

④ ある白血病児の母親は、常々「もし、この子が死ぬようなことになったら、その直前に自分の血液を少し輸血してほしい」と言っていた。多分、自分のからだの一部も、その子と一緒に死のうという気持ちからである。そして、ついにその日が来て、夜半に意識がなくなり、次第に状態が悪くなっていったとき、その母親は腕をそっと出して、「先生、輸血を」と言った。20ccほど採血して、死ぬ間際のその子に母親の血が輸血された。


「おまえは目が見えないか、いっこうに構わない」

「耳が聞こえないか、聞こえる人も聞こえない人も、

私のこころの中では全く同じだ。全く気にしてない」

「頭が悪いか、それで良い、それで良い」

「もう死ぬか、生きる死ぬは問題にしてないよ」

愛とは、この絶対的な受け入れ、絶対的承諾、絶対的肯定である。