おじんちょのよかった

過去のブログが閉鎖されたので、残しておきたい一部をこちらに転載しました。古い内容です。

いじめで自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残した・・

「いじめで自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、いじめる側にも立った」

曽野綾子さんのこのことばが、ネット上で多くの批判を浴びてるようだが、僕には批判に値するとは思えない。石田衣良さんも似たようなことを言っていたが、自分の考えをこのブログに残しておきます。

いじめはどんな場所にもある、学校にも、職場にも、サークルにも。いじめのない社会などない。僕が小学校の頃は、常にいじめの対象であったが、おそらくいじめた本人はいじめてるつもりはなかっただろう。いじめられていたこの自分でさえ、ある女の子が、そのお父さんの職業についてからかわれたとき、からかう側にまわったこともあったのだ。・・・いじめの加害者と被害者をはっきり分けられるほど、単純ではないと思う。

「いじめはよくない、やめよう」などと軽々しく言える人がいたら、その人こそ、知らず知らずのうちにいじめる側に立っているかもしれない。

曽野綾子さんの今回の言葉は、むしろもっともな内容だと思う。交通事故で不幸にして人を殺してしまった場合、加害者は一生の傷を背負うことになる。会社を辞めさせられたり、損害賠償で一生支払い続けることになったり。もし運転者側の過失より、被害者側の過失が大きかった場合、むしろ加害者は交通事故で亡くなった人とみなすこともできるのだ。どちらが被害者かなんて、簡単に判断できないケースもあるのだ。それと同じことがいじめ自殺でもありうるということ。メンタルの弱い人間がちょっとしたきっかけで発作的に死んでしまえば、自殺のきっかけを与えたかもしれない言葉を浴びせた相手が、一生の傷を背負うことになってしまう。

いじめ自殺に関して言えることは、とにかくタフになれ、タフになれないならその場からひとまず逃げろ、ということだ。そのうち少しずつ強くなっていく。こんな僕でも少しはタフになってるのだから。

曽野綾子さんの言葉は、これまでもいろんな大事なことを気づかせてくれました。